薄明宮の奪還 更新日:2010.10.05
(10.11 加筆)


第5部 エンドルーア

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 第2章

6.揺れ惑う心-3



 確かにこんな寒さは経験したことがない、とアイリーンは感じていた。南方のアドニアでは、真冬でさえこれほど寒くはない。しかし、まもなく一年で最も暑い季節を迎えようというこの時期に、いくら北国の山の上と言ってもこれは……?

 彼女が疑問に思う気持ちが伝わったのだろう。ほとんど耳に触れそうなほど近くで、ティレルが言った。
「リーン・ハイアットはもっと寒いよ。エンドルーアはここ数年、魔物の瘴気のおかげで異常気象が続いているんだ」

 アイリーンはティレルの腕を振りほどき、距離を取ってから振り向いた。つかの間、彼の温もりに包まれた体が、再び寒さに震えるのを感じながら尋ねる。
「それじゃ……エンドルーアの人たちが、他国への侵略を容認したのは、そのせいなの?」
 ティレルは美しい微笑みを浮かべ、目を細めた。
「察しがいいね、その通りだよ。気候が滅茶苦茶になったせいで作物は採れない、魚や動物も激減した。どれほど多くの人が飢えて死んだか……」
「どうして?! 魔物は封印されているんじゃないの?」
いたたまれない思いがつのり、アイリーンは叫ぶように言った。

 そんな彼女を面白がるように、ティレルの笑いは増々深くなる。
「石の不在が影響しているんだよ。生け贄を使った封印は所詮、急場しのぎにしかならない。リーン・ハイアットから石がなくなって何年になる?……10年、その歳月の間に、徐々に魔物の力が増していったのさ」

 アイリーンは激しく震えていた。ティレルが笑うのをやめ、じっと彼女を見つめる。と、再び抱こうとしてきた彼の腕を避け、アイリーンはサッと後ずさった。
 ティレルは表情を無くしたままの顔で、どこか諦めたように言った。
「……君も魔力で暖を取ればいい。簡単だよ、暖めた空気をごく薄く身体の回りにまとうんだ」
 なるほどと思い、アイリーンはすぐにやってみた。凍えていた指先や、痛みさえ感じ始めていた顔や首の皮膚に、血の巡りが戻って来た気がした。

 ティレルが再び微笑んで言った。
「どうやらかなり魔力が回復したようだね、結構、結構」
クックッと楽しそうに笑うと、きびすを返して元いた方へ歩いて行く。かと思うと途中で振り返って言った。
「一緒に食事をしようと思ってね。君、ほとんど一日中眠っていたんだ、さぞお腹が空いただろう」
「……」
 ティレルがどういうつもりかはわからない。でも、いざという時のために体力はつけておいた方が良いのだろう……。アイリーンはそう思い、黙って彼の後についていった。そこには影のようにひっそりと物音も立てず、老婆が立って控えたままだった。

 席に着いたアイリーンに、ティレルは笑顔を向けた。
「そうそう、いい子だ……ちゃんと食べておかないと、次にいつ食事が出来るかわからないよ」
 含みを持たせた言い方に、アイリーンは眉をひそめる。いったい何をたくらんでいるのだろう? それにしても、彼の言動からは先ほどの激高した様子はすっかり消え去っている。老婆の給仕で食事が始まったが、ティレルはほとんど黙ったままだった。

 冷たい微笑みはティレルを大人びて見せる。けれど、無表情になった時の彼は、意外なほど幼く見えた。
“そうよね……私と同じ、まだ16歳なんだもの……”

 沈黙の中で、アイリーンは先ほどのやり取りをじっくりと反芻してみた。そして、確信は持てないものの、ティレルがあれほど怒ったのは、自分が彼を動揺させたからではないか、と考えてみた。もしそうなら……望みがない訳ではないと思う……再び彼を怒らせるだけかも知れないけれど……。

 ティレルの精神は今、一つになろうとして、とても不安定になっている。でも夢の中で彼が言っていたように、優しいティレルは消滅する訳ではない。それならやはり、アイリーンは彼と戦うよりも、何とかして彼の心に訴えたいと思うのだった。

 初めはクレイヴに強要されたからとは言え、ティレルが沢山の命を自らの手で奪ったことは動かしようのない事実だ。その罪を償う道を、たとえどんなに辛くても、一緒に歩んで行きたい……それがティレルを本当に救うことにつながるはずだと、信じているから……。

“知らなかった、現実のあなたが、こんなひどい目にあっているなんて……でも、今の私があるのは、そのおかげとも言えるんだわ。あなたが会いに来てくれなかったら、私だって、どうなっていたかわからないんだもの。だから……もしもあなたが望んでくれるなら、そして少しでも助けになれるなら、一緒に罪を償っていきたい。口で言うほど簡単なことじゃないとは思う……でもやっと会えたのよ、これからは辛さも喜びも、分かち合って生きていきたいの。愛しているわ、ティレル。私の大切なお兄様……いいえ、私たち双子なんだもの、私の弟でもあるんだわ……”

 フレイヤの涙をギメリックに預けていおいて本当に良かった、とアイリーンは思った。もちろん彼の元に無事に帰りたい、とは思うけれど……万が一、自分にもしものことがあっても、彼に全てを託せるのだと思うと安心していられる。もし本当にティレルが今、ギメリックを殺すために何か企んでいるのだとしても、石の主になったギメリックならきっと大丈夫……。ギメリックの強い力が石の力と合わされば、魔物の瘴気を抑えることができ、エンドルーアの気候も元に戻るに違いない。それはまた、自分に出来る、人々へのせめてもの償いと言えるのではないだろうか……。


 アイリーンは気持ちを落ち着かせようと、大きく息を吸い込んだ。たとえ、怒ったティレルに殺されるか、あるいは、そう……死ぬより辛い仕打ちが待っているとしても……少しでも可能性があるのなら、それに賭けてみるのだ。

「ティレル、あなたは自分でも、自分が本当は何を望んでいるのか、わかっていないのね。だってあなたの言動は矛盾だらけだもの。でも私にはわかる、あなたは本当は、私とギメリックに助けて欲しいのよ」

 ティレルの青い瞳が冷たく光り、アイリーンを睨み据える。覚悟はしていたものの、恐怖に身がすくむのを感じながら、それでもアイリーンは強くティレルを見返した。
「お願いよティレル、ギメリックと一緒に、リーン・ハイアットに帰りましょう!! そうすれば皆が救われる、あなただって、その方が今よりずっと幸せになれるはずだわ!!」
 ティレルの口の端にゆっくりと微笑みが浮かんできた。
「フフン……私を挑発しようとしてもダメだよ。今はまだ、ギメリックに力を与えるような真似はできない」

 たじろいだ様子のアイリーンを見てティレルは楽しそうに笑った。
「フフ、がっかりした? バカだねぇ、君は何様のつもりなんだ、まるであの伝説のフレイヤの娘のように、捨て身で人々を救おうとでも言うのかい?」

 ティレルは立ち上がって近づいて来た。彼の冷たい微笑みはやはり恐ろしく、アイリーンも立ち上がり、思わずじりじりと後ろに下がる。どうしても……彼の心を動かすことはできないのだろうか……と、絶望に捕われながらも、アイリーンは懸命に訴えた。
「ティレル! 思い出して、私にいつも正しい道を教えてくれたのは、あなたなのよ! 私は、3歳まではお母様に、それから9歳までは乳母のユリアに、そしてその後は、あなたに育ててもらったようなものなんだから……」

 ティレルは立ち止まり、苦々しげに顔を歪めた。
「ああ……覚えているとも。バカバカしい。それ故に私は……お前をこんなにも求めてやまないのだな……」
 ティレルの表情が次第に苦しげになり、とうとう彼はテーブルの上に手をついて体を支えた。
「ティレル?……どうしたの?」
 心配になったアイリーンが側に近寄って覗き込むと、ティレルは蒼白になって額に冷や汗を浮かべていた。
「……こんなはずではなかった……今頃はもう、私か……ギメリック……どちらかがこの世から消滅しているはずだったのに……」
 ティレルはしゃがみ込んで床の上にうずくまってしまい、驚いたアイリーンも一緒にひざまずいた。
「ティレル!! しっかりして!! どこ?……どこが苦しいの?」
 アイリーンはどうしていいかわからず、ティレルを抱きしめながら、オロオロと視線をさまよわせた。使用人らしいあの老婆なら何か知っているかも、と思ったのだが、給仕が終わって姿を消したままで、広い部屋を見渡してみても、やはり見当たらない。

 ティレルは自分を支配しようとするもう一つの意思と激しく戦っていた。これが初めてではない、しかも相手はかなり弱っている……。大丈夫だ、いつも通り私の勝ちだとティレルは思った。しかし……この存在に勝つことは、果たして自分にとって幸なのか不幸なのか……。いや、そもそも、そんな風に考えてしまうこと自体、今までの自分にはあり得なかったことなのだ……。
“あの時からだ……私の中にろくでもない迷いと疑念が生じたのは……うう……やめろ!! 私は……私だ!!”

 この戦いが始まるきっかけとなった声が、再び耳に響くのをティレルは聞いた。
“私は必ずあなたを助けるわ! 待ってて、ティレル……! 愛してる!!”
「ティレル!……私に何かできることは?」
 重なりあう声に溢れる想いは……彼女が知るもう一人の自分に向けられたもの……しかしそれと同時に、まぎれもなく、この自分に対しても等しく向けられているのだと……信じることができるのは、なぜだろう……。

 自分を包み込む温かな腕と、優しく背中をさすり続ける手を意識した時、ティレルは苦しみがすうっと引いて行くのを感じた。

 急にティレルが顔を上げたので、彼を胸に抱きしめていたアイリーンは至近距離で彼と見つめ合う格好になった。リアクションする暇もなく彼の顔がさらに近づいて、唇が重なる。びっくりして離れようとする彼女の体を、今度はティレルの腕ががっちりと抱きしめた。

“どうして?! さっきまであんなに苦しそうだったのに……どうしてこうなるの〜〜〜っっ?!”
 アイリーンはひどく混乱し、心の中で叫んだ。
“やめてよっ! 放して!! ティレル!!”
 必死になって暴れようとするのだが、ティレルの腕はびくともしない。
口づけは深く執拗に続いた。アイリーンは息苦しさのため、だんだん思考力を奪われ、抵抗する気力さえなくしていった。

 ようやく解放された時、アイリーンは息も絶え絶えという有り様だった。涙のにじんだ目をうすく開くと、ティレルがニッコリと微笑んだ。自分は気を失う寸前だというのに……どうしてこんなに涼しい顔をしていられるのだろう……。

「ぼくも……アイリーン、愛しているよ……切り刻んで食べてしまいたいほどにね。とりあえずギメリックが近くに来るまでは、せいぜい二人の時間を楽しもうよ」


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