薄明宮の奪還 更新日:2007.05.06


第3部 リムウル

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 第4章

9.失意と離別-2


 一瞬、アイリーンはひるんだようだった。
けれど、全てを知ろうと覚悟を決めたのだろう、唇を噛み締める。
「どうしてそんなことになったのか、教えてくれる……?」
“なぜ、と言うのか?……ヴァイオレットが何を考えていたのか、それがわかれば……”

 共に暮らし、あらゆる意味で彼女に最も近いところにいたはずの自分に、彼女は何も告げずに行ってしまった。言おうと、していたのかも知れない。だが3年前のあの時、自分は何を聞き入れることもできない状態だった。……父のことは、クレイヴに陥れられたのだから、仕方ないと思うこともできる。しかし……自分がもう少し注意して、彼女の言おうとすることに耳を傾けていれば……あるいは彼女は死なずに済んだかも知れないのだ……。

 ギメリックの瞳に、苦しみの影が揺らぐ。彼の数々の辛い記憶の中でも、一番痛い部分なのだと……ふいに悟ったアイリーンはそっと彼の隣に寄り添った。まるでその温もりで彼の心を少しでも癒そうとするかのように。

「……16歳になる数日前に、俺は自分がしたことを思い出した。その記憶に苦悩し、ヴァイオレットにフレイヤの涙を渡してくれと頼んだ。すぐにでもエンドルーアに乗り込んで行き、クレイヴを倒して……」
“ 魔物とともに、自分もこの世から消えてしまいたかった”
後の言葉をギメリックは飲み込んだ。しかしアイリーンにはわかっているのだろう。彼の苦しみに共鳴し、心を痛めているのが感じられる。

「……ヴァイオレットは石を渡すことを拒み、誕生日が来るまで待てと言った。俺は指折り数えてその日を待った……だが、その朝、ヴァイオレットは何も言わずに姿を消していた。始めは、隠し場所へ石を取りに行っているだけかと思っていた。しかし夜になっても彼女は帰ってこない。そして……感じた……彼女がこの世を去っていく瞬間、彼女が最後に見た景色を……勝ち誇ったティレルの残忍な笑い、彼女の苦痛……俺は、忘れることができない。クレイヴとティレルへの憎しみ、その思いだけが、俺を支えて来たのだ」

しばらくアイリーンは黙り込んでいた。ティレルへの想いと、ギメリックの苦悩の狭間で心が揺れる……。

 やがて小さな声で、彼女は尋ねた。
「……狂王の命令で、ティレルは仕方なく戦ったんじゃ……?」
「違う。あいつは……楽しんでいた。俺は知っている。子供の頃から、やつのそうした性癖を間近に見てきたのだ」
アイリーンが苦しげに息をのむ気配を感じ、ギメリックはわずかに彼女から顔を背けた。
「でも……」
一生懸命に考えを探りながら、彼女が言う。
「それは彼が病気だから……でしょう? 治してあげることは、できないの?」

「……アイリーン」
静かに名を呼ばれ、アイリーンは彼の顔を見上げた。ギメリックが自分を見つめている。トパーズの瞳に浮かんでいるのはむしろ、自分への気遣いだと知り、アイリーンは胸を打たれた。

「個人差はあっても、人の心は清濁を併せ持っている。それがこの世に生きる人間の姿というものだ。しかしお前が会っていたあのティレルには、負の感情というものが欠落していた。……もとより仮の存在とも言うべきものだったのだ。だから、もしもティレルの病が癒えたなら、お前の“ティレル”には二度と会えなくなるだろう。本来のティレルは二つの人格のどちらでもない、二つが融合した全く別の人格であるはずだからだ」

“それでも、あいつを愛せるのか?”と、ギメリックの瞳が問うている。

アイリーンにとって、その答えは迷いもなく“Yes”だった。たとえ彼が本当はどんな人間であったとしても……自分を愛し支えてくれたティレルがいたこと、その事実までを、否定することはできない。

自分が愛したあのティレルには、もう二度と会えないのだとしても……彼が自分のことを忘れてしまっても。生きてさえいてくれるなら、自分は彼のために、できるだけのことをする。彼から受けた恩に報いるために……。

 わずかに瞳をうるませ、けれど強い決意を示すように、アイリーンはギメリックの瞳をまっすぐ見返した。するとギメリックは再び彼女から顔を背け、目を閉じた。

「……それに、俺がティレルの命を助けたとして……ティレルに親兄弟を殺された者たちがやつを許すと思うか? この村の者ほとんど全てがそうだし、近隣諸国を合わせれば数百人は下らない。……あいつ自身も苦しむだろう。己が犯した罪に傷つき、怯え……自分を責め続けるだろう。それでもお前は、ティレルに生きろと言うつもりか?」

そうだった……もう会えないと言われたあの時の、彼の言葉。
“ぼくは、あいつと共に滅びる運命……だけどそれはぼくにとって、長い間待ち望んでいた唯一の救いなんだ”

 自らの罪に苦しんできたギメリックには、未来のティレルの苦しみが手に取るようにわかるのだろう……自分をこの世に生かすことすら嫌悪してきたこの人には……。彼に死を与えることは、むしろ救いだと?……だから、自分の手で、彼を殺そうというの? それは復讐? それとも……。

「だけど……あなたはもう死を望まないと誓ってくれた。苦しみを乗り越えて、生きることを選んでくれたじゃないの?……ティレルにも、手を差し伸べて欲しいの。お願いだから、ティレルを殺すなんて言わないで。彼を助ける方法について、何か知っているなら教えて……私にできることなら何でもするから」

 懸命に訴えてくる彼女の声を聞きながら、ギメリックは苦い思いを噛み締めた。
ああ、こいつは誰にでもこうなのだ。俺に限らず、誰の命も等しく大切に思っている……いや、それともやはり、ティレルは特別ということなのか。
……そばにいて欲しいと、懇願はされた。だがいったい、俺はお前の何なのだ?
従者か? それとも保護者か? 親鳥か?

「何でもだと……?」
ギメリックは憮然としてアイリーンを見下ろした。しかしその表情とは裏腹に、優しく、彼女の頬に手を添える。少しでも脅かすと逃げて行ってしまう小動物に接するように慎重に……親指でそっと、彼女の唇を押さえた。

「……不用心だな。できもしない約束を口にするものではない」
アイリーンは彼の手に自分の手を重ね、彼の指を握り込んでから応えを返す。
「だって、あなたは……私に無理なことは最初から、教えてくれたりはしないでしょう?」
見上げてくる絶対的な信頼の眼差しが、胸に痛い。しかしその澄んだ瞳は、彼のいらだちと衝動をさらにかき立てた。
「さぁ、それはどうかな。お前に無理かどうかなど、試してみないとわからないだろう?」
そう言うと、素早く彼女を引き寄せて口づける。
「……っ!!」
アイリーンは一瞬、体をこわばらせた。しかし次第にその体から、力が抜けて行く。

“……どうして?……いつもいつも突然で……全然、脈絡がないんだから……”
そう思いながらも苦しいほどの胸の高鳴りを感じ、アイリーンは何が何だかわからなくなってしまった。軽く頭を押さえられているだけなのに……その手から、逃れられない。

 陶然とするうち、長い口づけは徐々に激しさを増していく。彼の舌が侵入してきた。その感触にビクリと体が震える。気がつくと、いつの間にか彼の強い腕で、身動きもできないほどきつく抱きすくめられていた。
 ギメリックの高ぶりがエスカレートしていくのを感じて、アイリーンは急に怖くなった。必死になって彼を押しのけようとする。と、その手首を掴まれ、草の上に押し倒された。
「あ……?……いや……っ」
「本当に嫌なら、俺を拒めばいい。お前にはできるはずだ。……忘れたのか? 石の主はこの世で最強の魔力保持者、ここでなら、自由に魔力を使っていいんだぞ?」
ギメリックはそう言うと、ペンダントの鎖の上から、アイリーンの首に口づけた。
「きゃ……っ?!」
あまりの動揺に、体が震え出す。
“いや……怖い……っ!!”

 アイリーンはぎゅっと目を閉じた。自分の身に何が起ころうとしているのか、正確にはわかっていなかった。ただ、ギメリックの真剣さが、どうしようもなく怖い。
「俺に触れられるのは、嫌か?」
驚いて目を開くと、沈んだ表情のギメリックが見下ろしている。
切なげな、苦しそうな……こちらまで辛くなるような……。
アイリーンは胸がいっぱいになり、慌てて首を振った。
「なら、なぜ泣く……?」
「……わ、わからな……」

  言葉を詰まらせ、ただ涙を流す彼女を、ギメリックは体を起こして抱き上げた。腕の中に包み込んで抱きしめてやると、固く緊張していた彼女の体が、少しだけ緩むのがわかる。しかしまだ震えは止まらない。

 ギメリックは以前、激情に駆られて抱こうとした時の、彼女の怯えた様子を思い出していた。あの時の恐怖が無意識に蘇ってしまうのかも知れない。そう思うと、自業自得とはいえ……やるせない。
 しかし彼女はまだ16なのだ。心も体も、ようやく大人になりかけたばかり……無理強いすることはできない。

 それに、彼女の望み通り、もしもティレルを助けることができるなら……彼女が選ぶのは当然、彼なのだろう。そしてティレルにしても、生きていけるはずだ……たとえ茨の道を歩むのだとしても、傍らにアイリーンという希望があるのだから……。


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 鳥の声が聞こえる……。
アイリーンは目を開けた。
早朝の露を含んだ瑞々しい空気が、辺りを包んでいる。
立ち込めたもやの向こうから、柔らかな木漏れ日が差し込んでいた。

体を起こすと、奇跡のように美しい翡翠色の泉が目に入った。
そのほとりで、彼女は一人、ギメリックのマントにくるまって眠っていたのだった。

静まり返った水面を、風が渡って行く。
「ギメリック……!!」
アイリーンは叫んだ。
「……帰ってきて!!」

けれど彼女の魔力は告げていた。
どんなに叫んでも聞こえないほど、彼は遠くへ行ってしまったのだと。
そして、彼はもう心話にすら、応えてはくれないのだと……。


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