薄明宮の奪還 更新日:2006.03.15

第3部 リムウル
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 第2章

3.包囲網


「アイリーン……!!」
“誰……? 私を呼ぶのは……”
夢とうつつの狭間、ハッキリとは覚醒していない意識の中で、アイリーンは思った。
“お願い、放っておいて……今はまだ、目を閉じていたいの……”
目が覚めればそこに、悲しみが待っていると……胸の中にあふれる涙が知らせている。

「……XXXXX。人が、もう二度と目覚めたくはないと思うのは、どんな時だと思いますか……?」
突然、アイリーンの脳裏に鮮やかに、女性の声と姿が浮かび上がってきた。
 したたる緑から降り注ぐ木漏れ日の中、黒紫のマントをかぶったヴァイオレットが静かにたたずみ、こちらを見つめている。美しいまつげが落とす影の奥で、黒い瞳はやはり濃い紫色に見えた。限りなく穏やかで、しかし強い意志を秘めたその眼差しから、アイリーンは目をそらすことができなかった。優しく名前を呼ばれた気がするが、その名は“アイリーン”ではなかった。
「大きな悲しみや苦しみに見舞われた時……生きていくのは大変つらいことです。けれど誰も皆、この世に生きる以上は大なり小なり、それを味わわねばなりません。ですが、どのような悲しみや苦しみに苛まれようと、明日という日を迎える気持ちがあるなら、人は生きられる。たとえそれが憎しみや怒りや……苦痛を伴う使命感からくるものであったとしても……明日を生きる糧となるならば、それもまた人を救うことになるのです。……真に人を殺すのは、絶望です。自分の未来に何の光も見出せない、そんなとき……人は自らの死を思うのでしょう……。だから、XXXXX、人間にとって希望がいかに大切か、わかるでしょう?」

 ……懐かしいヴァイオレット……。これはきっと過去の記憶なのね……。
でもおかしいわ。私は生まれてから一度もアドニアを出たことはない。それなのに……彼女と一緒に旅をして、いろいろなことを教わった気がする……この記憶はいったい、何……?

「おい、起きろ! アイリーン!!」
腕をつかんで揺すぶられる感覚に、彼女の意識は徐々に現実に引き戻されていった。
“ああ、この力強い腕、温かい胸を……私は知っている……。私を守り、時にはなぐさめるために、抱きしめてくれた……だけどあなた自身の心は、悲しみと苦しみでいっぱい……”

 突如、口と鼻を塞がれ、アイリーンは苦しくて我に返った。夢中でもがいてその手を振り払ってみると、間近で自分をのぞき込む、ギメリックのしかめっ面が見えた。
「なっ、何するのよっ?!」
荒い息の間から怒った声を上げ、アイリーンは半身を起こして後ずさった。
「苦しいか? なら良かったな、体に戻れたということだ」
ギメリックの冷たい声と憮然とした表情に、アイリーンは鼻白んだ。
“えーと……もしかしてこの人、……怒ってる……? な、なんでよ……怒るとしたら……私の方じゃないの……”
パニックに陥りそうな頭を整理しようと記憶をたどろうとした彼女だったが、ふと、周りの異変に気づく。

 ギメリックとアイリーンの体は、何もない真っ暗な闇の中に漂っていた。
まるで質量を持っているかのような不気味な闇が回りを取り巻いている。
「何……? どこ? ここは……」
「……おそらく宿の部屋を一歩も出てはいない。敵の精神攻撃の包囲網に囚われているだけだ」
「どうして?!……結界は……」
「だから早く起きろと言ったんだ。すっかり囲まれてしまった……まぁしかし、俺がヘマをして、結界を破られたせいでもあるが」
 ギメリックは苦い笑いを浮かべた。
アイリーンを殺すことも傷つけることもできない自分を自覚し……自らの手で果たすはずだった使命を彼女に託すしかないと悟った時。
 彼は、自分自身の存在意義を見失ったのだ。そして、死の安息へと傾く気持ちをどうすることもできなかった。……その一瞬、魔力が弱まり、同時に、堅固だったはずの結界も弱まった。やはり敵は巧妙に自分たちの後をつけ、隙を窺っていたか、あるいは……結界を出て行った、アイリーンの魂の魔力の気配に引き寄せられたか。

「……気をつけろ。精神攻撃によってもたらされる痛みは肉体には影響しないが、精神を喰われれば肉体も死ぬ」
 まるで天の啓示を受けたかのように、アイリーンは悟った。この世界に生きる人間は、魂と肉体を併せ持った存在であり、そのどちらが欠けても、この世に留まることは出来ないのだ……。
「魂を失っては、肉体は長くは生きられないのね。だから……迎えに来てくれたの?……ごめんなさい、私のせいでこんなことに……」

「……」
ギメリックはひと呼吸おいてため息をつくと、言った。
「済んでしまったことを言っても始まらないだろう。……気にするな。それに心配することはない、何があっても、お前は助かる。……俺がそうさせる」
今まで見せたことのないほど穏やかな表情で、彼女に向かって微笑んで見せる。
“なんて……寂しそうな笑顔……!!”
アイリーンは締め付けられるような胸の痛みを覚え、衝撃を受けた。
あれほど鮮烈だったトパーズの瞳の鋭さが和らぎ、その中に秘めたる決意と、静かな諦めが浮かんでいる。アイリーンは直感した。
「ダメ!……あなた死ぬ気ね?……ダメよ!!」
アイリーンはギメリックにしがみついた。
「あなた私を守るって言ったわ、だから死んじゃダメ!!」
自分でもまるで説得力がないとはわかっていたが、アイリーンには他にどう言って彼を思いとどまらせればいいのか、全く思いつけなかった。彼女の必死な様子に、ギメリックはクスッと笑う。
「ああそうだな。お前をソルグの村まで無事に送り届けるまでは、死ぬ訳にはいかないか。……来るぞ!!」
ギメリックが叫んだ次の瞬間。
幻獣の鞭のようにしなう触手が、サッと伸びてきた。


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