薄明宮の奪還 更新日:2005.08.06

第2部 アドニア〜リムウル
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 第2章 /交差する運命

7.逃走

 混乱と動揺で頭の中が真っ白になりそうだった。
けれどアイリーンは苦しさに耐え、懸命に自分を保とうとしていた。 攻撃と防御の魔力を使うには、強い精神力と集中力が必要だと、あの男は教えてくれた。自分を見失っては、力を発揮することはできない。

 やっと唇を解放されたときには息も絶え絶えだったが、彼女はルバートが自分を奥の部屋へと運ぼうとして扉の前で立ち止まり、魔力を使って扉を開こうとしていることを悟った。

もし奥の部屋に窓がなかったら、逃げる機会を失ってしまう……!
今しかチャンスはない、とアイリーンは思った。ルバートの力が扉を押し開いた瞬間、アイリーンは一気に自分の中の力を集め、外へ向かって放出した。
「う……っ?!」
ルバートの体が、足下からすくわれたように回転しながら前へ倒れ、床に転がった。同じく床に投げ出されながらも、アイリーンは魔力でルバートを扉の奥へと押しやり、すかさずその扉を閉めた。そうしておいて、窓に駆け寄る。

「……!!」
アイリーンは息をのんだ。地面ははるか下だった。
少なくともここは3階か4階、それとも塔の中なのだろうか?
邸宅というより、小規模な城塞かと思うほど大きな屋敷だった。
屋敷の周りには、まるで森の中のように大きな木が何本も立っている。

“ドンッ!! ドンッ!!”
ルバートが魔力で扉を叩く、恐ろしい音が響いてきた。ためらっている暇はない。
バーンッッ!!
大音響と共に扉が砕け散った。
同時に、アイリーンは窓から外へと身を躍らせていた。
“大丈夫……! 大気が、私を受け止めてくれる!!”
そうだと自分に言い聞かせ、信じることこそ大切なのだ。
危うく崩れそうになる心の均衡をかろうじて保ちながら、アイリーンは落下していった。目を閉じて、自分が空気に受け止められるイメージを思い浮かべる。
風が湧き起こり、彼女の体を包み込んでいった。
柔らかな浮遊感に、そっと目を開ける。
地面の手前2mほどのところで彼女の体は浮いていた。
徐々に風がおさまってくる。
アイリーンははふわりと地面に降り立った。

 見上げると、窓からルバートが見下ろして何か叫んでいる。
幸い彼の魔力の及ぶ範囲からは逃れられたようだ。
体を縛り付けてくるあの嫌な感覚は襲ってこない。
アイリーンは走り出した。
いつの間にか、丈の長いドレスを着せられていて、とても走りにくい。
彼女は裾をたくし上げ、裸足のまま走った。
足が痛かったがそんなことは言っていられなかった。

 彼女が降り立ったのは屋敷の横手だった。
建物のすぐそばにまで、大きく枝を広げた木が立っている。
木々の間をすり抜けて、アイリーンは走っていった。
しばらく行くと、屋敷の周りをぐるりと取り囲んでいる、高い塀に行き当たった。
魔力で超えられないかと探っていると、背後から大勢の人の気配と物音がしてきた。
アイリーンはとっさに、そばにあった灌木の茂みに身を隠す。

 鎧に身を固めた20人ほどの兵士達の一団がやって来た。彼らも心得たもので、長い槍で灌木の茂みを一つ一つ探りながら、こちらへ近づいてくる。
“どうしよう……! このままじゃすぐに見つかる……!”
何か方法はないかと考え、アイリーンは思い出した。
初めてギメリックに会ったとき、他の人には彼の姿は見えなかった……あれはきっと、魔力で目くらましをしていたに違いない。アイリーンは自分の魔力を体の回りにまといつかせるようにイメージし、音を立てないように気をつけて、そうっと灌木の茂みから這い出した。術は見事、功を奏したようで、兵士達は彼女のすぐ近くを気づかず通り過ぎて行った。

 アイリーンはホッと息をつき、再び塀に向き合った。 が、今度は近づいてくる魔力の気配に気づき、振り返った。
“この気配は……さっきのあの人……! いけない、隠れないとダメだわ!”
きっと、魔力を持つ者には目くらましは効かない……そう思った彼女は再び、灌木の茂みに這い込んだ。木の葉の隙間からそっとうかがっていると、あの男を先頭に、兵士の一団が今度は足早に通り過ぎていく。ホッとしたのもつかの間、男の声が頭の中に響いた。

“そこにいるのはわかっています。魔力の気配を隠さない限り、いずれ私の主人に見つかってしまいますよ! どうして主人が自ら結界を解いたとき、"彼"を呼ばなかったのです?!”
“……大丈夫よ。あなたのおかげで、だんだん力の使い方がわかってきたの。今から気配を隠せるよう、やってみる。きっとうまくいくわ”
“……塀に近づいてはいけません。ルバート様の結界がある。破って出て行けば、必ず感知されて即座に追っ手がかかります。彼が結界を維持するのに疲れたら、交代で私が張ることになりますから……そのとき知らせてあげましょう。それまで、見つからないように気をつけて、隠れていなさい……”
彼の心の声は段々小さくなり、とぎれとぎれになっていく。
“どうして助けてくれるの? あなたは大丈夫なの?”
問いかけに答える男の声はもう聞こえず、姿の方もとっくに見えなくなっていた。

  アイリーンはとにかく自分の魔力の気配を消そうと試みた。結界には色々な種類があるようだが、どうやら自分の気配を隠すものは基本中の基本らしい。アイリーンはエリアードに教わったとおり、まずは閉じた空間をイメージし、その中に自分がいるところを思い描いてみた。拡散していた魔力がきゅっと引き締まり、自分と周りとの間に、半透明の膜がかかっているような感覚が生まれる。魔力の知覚も薄れたような気がし、今度こそ成功したと感じることができた。
“よかった……これでもうルバートにも、気配で私を見つけることはできないはず……”

 そう思った時、またもや違う兵士達の一団が、こちらへやってくるのに気づいた。様子をうかがってみると、やはり槍で茂みをつつきまわしている。仕方なく、アイリーンは彼らが来る前に茂みの中から出てそのそばに立った。見えてはいないとわかっていても、落ち着かなかった。
“……そうだ、もしルバートが自分の気配を隠して私を探しに来たら……気づかないうちに姿を見られてしまうわ。やっぱり、どこかに隠れていないと……”
アイリーンは盗賊から身を隠した時のことを思い出し、木の上に登ろうと思った。登りやすそうな下枝が出ている木を見つけ、よじ登る。葉が良く茂った部分まで登るとようやく少し落ち着いて、枝に座った。

 間一髪だった。いくらも経たないうちに、次の兵士たちに混じってルバートがやってきたのだ。
「まだ屋敷の外には出ていない、必ずどこかに隠れているはずだ! 草の根を分けても探し出せ!」
苛立ち、怒鳴りつけている声が聞こえる。
アイリーンは葉の隙間から、恐る恐る様子をうかがった。
怒り狂ったルバートの恐ろしい顔つきを見て、アイリーンは確信した。
“見つかったら……、今度こそ即、殺される……!”
あまりの恐怖に、体が震えてくる。
兵士達は辺りの藪や茂みにくまなく分け入って、ネズミ一匹見逃さない様子で探し回っている。ルバートは魔力の気配を探っているのだろう、じっと立って、ゆっくりと辺りを見回していた。アイリーンは不安でますます体が震えてきた。
“お願い……早くあっちへ行って……!”
真下から見上げればアイリーンの姿は丸見えだから、もしもこの木のそばにルバートが来たら見つかってしまう……。
“動揺してはダメ、落ち着かなくちゃ……”
アイリーンは目を閉じて、結界を守ることに意識を集中した。永遠の時が過ぎるかに思えたが、ようやく彼らはゆっくりと遠ざかり、やがて物音も聞こえなくなった。

 ひそめていた息を大きく吐き出して、アイリーンは幹にもたれかかった。
“ルバートが疲れるまでって……どれくらい? それまで、見つからずにいられるかしら……?”
不安でたまらなかったが、とにかく今は時を待つしかないようだ。魔力の使い方がわかってきたとは言え、ルバートと真っ向から戦って勝つ自信などとうていなかった。

“でも……もしここから逃げられたとして……私はいったい、どうすればいいのだろう……”
アイリーンは、ルバートとあの男がもたらした情報をもとに、自分の中で形を取ろうとしている考えに嫌々ながら向き合わなければならなかった。

“エリアード……今ごろ、どうしているかしら……”
エリアードは自分に腹を立てていた。しかも彼からしてみれば、部屋から出るなと言っておいたのに自分が勝手にいなくなったのだ。一人でレナンダールに行くなんて言ってしまったから、本当にそうするつもりだと思われていたら……探してくれているかどうかもわからない。それにルバートのいかにも自信ありげな口ぶりからすると、来ない方が彼のためなのだ、きっと……。

“それに、それに……”
アイリーンはとうとう、その恐ろしい考えをハッキリと頭の中で意識した。
“彼はやっぱり、誰なのか、わからない……”
彼女を捕らえたあの男との会話の最中から、アイリーンはそのことを疑っていた。そしてルバートの話によって、それはもう決定的なこととして、必然的に導き出される答えとなってしまった。ルバートには、彼女にウソをつく理由など何もない。それは、自分がエンドルーアの密偵だとあっさり彼女に語ったことでもよくわかる。だとすると、ウソをついていたのはエリアードの方なのだ……。

 魔力を持たない両親から生まれたという話も、彼の魔力がたいしたものではないという話もどうやら偽りらしい。しかも魔力を持った彼が褐色の髪に緑の瞳ということはあり得ない。ということは……誰か別人が、彼の姿を装って父の目をあざむいていたことになる。

 恐ろしすぎて考えたくもなかったが、ここまで考えがおよんだ今、もう目を背けることはできなかった。彼の正体はギメリックなのだ。
  そう考えると何もかも、しっくり来るような気がした。思えば旅での最初の野営の時から、自分の魔力は彼にギメリックの気配を感じていたのではなかったか……? 心を閉ざし、決して自分に本音を読ませまいとしていたあの頑なさ、冷淡さ……。時折感じた、恐ろしい殺気……。考えれば考えるほど、思い当たることばかりだった。

 森で襲われたときも、すぐ近くで疑いようのないほど強く、ギメリックの気配を感じたではないか……。あの時は、襲ってきた相手がギメリックだと思っていたけれど……今や、そうでないことはハッキリしている。おそらく戦いの方に集中するあまり、自分の気配を彼女に隠す力が一瞬、弱まったのだ……。

“いったい何の目的で、彼は私と旅をしているのだろう? 私をどこへ連れて行き、どうするつもりなのだろう……”
 エリアードがギメリックではないかと疑ったあの時、兄や他の関係のない人を巻き込みたくなくて、その方がいいとさえ思った。けれどいざそれが現実になってみると……、怖くて、心細くて、どうしていいかわからなかった。

“怖い……誰か助けて! ああ……お父様!……お兄様……!”
アイリーンの目に止めようもなく、涙があふれてきた。
脳裏に浮かぶのは、最後に見上げた懐かしいアドニア城のたたずまい、そして心配そうに自分を見つめていた、兄と父の姿……。あれからまだ一週間ほどしか経っていないというのに……もう何年も過ぎたような気がする。
 あそこには自分の居場所などないと、思いこんでいたけれど……そんなことは、自分の気持ち一つでどうにでもなることだったのだ。今になってわかる……生まれ育ったあの場所は、なんと平和で安全だったことだろう!

“……帰りたい……!! でも……帰れない……”
帰れば、姉殺しの魔女として、処刑される運命なのだ。自分を守ろうとする父や兄に、また迷惑をかけることになるかも知れない。だから自分にはもう、帰るところがない……。かと言って、もし、ここから逃げられたとしても、レナンダールへの道すら自分は知らないのだ。
 この恐ろしい世界にたった一人、右も左もわからないまま放り出されて……どうすればいいのか……。自分の身の寄る辺なさを思うと、心細さと寂しさで、胸が張り裂けそうだった。

いっそもうここで、殺されてしまっても、仕方ないかも知れない……その方がいいのかも……。

 一瞬の気の迷いによって力が霧散していくのを感じ、アイリーンはハッと我に返った。
“いけない……!!”
あわてて再び力を集め、元通りに結界を張った。しかし動揺のため、少し時間がかかってしまった。アイリーンはまた、体が震えてくるのを感じながら、しばらくじっと息を潜めていた。
“……大丈夫だった……?”
 ほんの僅かの間だったから、よほど近くにルバートがいなければ、わからなかっただろうとは思う。しかし不安がつのり、アイリーンはそっと葉陰から下の方をうかがった。

「……!!」
息が止まるかと思った。すぐそばの木の下に、ギメリックの姿があったのだ。彼も自分の気配を隠しているらしく、今までちっとも気づかなかった。
  先ほど漏らした自分の気配を、感づかれたに違いない。一つ一つ木の上を探りつつ、彼が近づいてくる。アイリーンは恐怖に凍り付いた。このままでは……見つかるのは時間の問題だ……。

 パニックになった頭の中で、ある考えに行き当たり……アイリーンは今度こそ、息の根が止まるほどの恐怖を覚えた。自分は一番肝心なことを忘れていた! ルバートはエンドルーアの密偵、と言うことはギメリックの命を受けてここにいるのだ。とするとギメリックの目的地は、部下が待つここだったのではないか……? だからギメリックも今ここに来て、自分を探しているのだ……。

“もうダメだわ……! ギメリックとルバート、二人が相手では……とうてい、逃げられない……!”
アイリーンが絶望に打ちのめされ、ぎゅっと目をつむったとき、彼女の真下で声がした。
「アイリーン……様! 良かった! ご無事でしたか!」
恐る恐る下を見ると、ギメリックが自分を見上げて立っている。
「いや、来ないで……」
「アイリーン様……?」

 真っ青な顔をした彼女に、激しい恐怖を湛えた目で見られて、ギメリックは気がついた。
“俺も、間抜けだな!”
心の中で舌打ちをする。彼女を捜すことに必死になるあまり、エリアードに化けるのをすっかり忘れていたのだ!
「アイリーン様、私です、エリアードです! 敵の目をあざむくため、ギメリックに化けているのですよ」
「……ウソ! わかってるわ、あなたはずっと私をだましていたのよ……どうして? 私をここで、殺す気だったの?」
やっとギメリックは、彼女が自分の正体を悟ったのだと気がついた。
“何でこんな時に……やっかいな……!”
しかしもう、ごまかしは効きそうにない。とにかく彼女を連れてここから脱出しなければならないのだ。ルバートに見つかっては、ますますやっかいなことになる。
ギメリックは一瞬のうちに心を決めた。
「確かに俺はギメリックだ、しかし、断じて、やつらの仲間ではない!」
すぐには、彼の言葉が理解できないのか、アイリーンは恐怖におびえる目で彼を見つめたままだ。動こうとしない彼女に、ギメリックは手を差し伸べて叫んだ。
「俺を信じろ! 来い!!」
彼女の混乱が波の波動のように伝わってくる。
「……わからないのか? お前を守ると俺は決めた! だから助けに来た……さあ、ここから逃げるぞ、来い!」
しびれを切らした彼の魔力がアイリーンを包み込み、彼の元へと運びおろす。彼女を抱きとめ、ギメリックはしっかりとその体を胸に抱きしめた。
「……どうやら無事だな」
つぶやかれた安堵の声に、アイリーンはギメリックの心が偽りでないことを感じ取った。
“ああ……!! わからない、この人は味方なの……? そうじゃないの……?”
そう思いながらも、自分を抱きしめる力強い腕の存在に、ホッとしている自分がいる。少なくとも今は、一人きりではないのだ……。そう思うとありがたくて、涙がこぼれた。

 懸命に嗚咽の声をこらえ、体を震わせる アイリーンを、ギメリックはさらに強く抱きしめた。細い手首に残る痛々しい鎖の跡や、裸足で走り回ったために傷だらけになり、所々血のにじむ彼女の足を見て、ギメリックは顔をしかめた。
「……ひどい目にあったな……悪かった。こんなことなら、お前を一人にするのではなかった……」
泣き顔を見せまいとするのか、自分の胸にしがみつき、顔を押しつけている彼女に、既視感を覚える。
“そうか……ティレルに化けて姿を見せた、あの時も……こんな風に泣かれたな……”
だぶん、あの時からもう……自分はこの少女を、守ってやらずにはいられなくなっていたのだろう。彼女の心にある孤独と寂しさに、知らず知らず自分を重ね、同調していたのかも知れない。それは彼にとっても、長い間慣れ親しんだ感情だったのだから……。

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