薄明宮の奪還 更新日:2005.03.10

第2部 アドニア〜リムウル
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 第1章 /旅路
2.森

 朝のまぶしい光の中で見る森は、素晴らしかった。
春から初夏へと移り変わっていくこの季節、木々の葉は鮮やかな新緑に彩られ、そこかしこに色とりどりの可憐な野の花が咲いている。
 木漏れ日が金色の光の筋となって降り注ぐ中、馬を引いて歩いていたエリアードは立ち止まり、後ろを振り返った。
 遅れて歩いていたアイリーンがそれに気づき、嬉しそうにパタパタと走り寄ってくる。肩までに切りそろえられた金髪が以前の重みを失って一層柔らかそうにフワフワとなびき、微笑みをたたえ生き生きと輝くその顔に、さらに明るさを添えている。
 
 エリアードに追いついて横並びになったとたん、アイリーンは行く手の木の根の上に一匹のリスがいてこちらをうかがっているのに気がついた。歓声を上げ、今度はエリアードより前へ走っていく。リスは素早く身をひるがえして木を上っていき、幹の中程に空いていたウロの中へと姿を消した。アイリーンは木に駆け寄ると下枝につかまって体を持ち上げ、ウロの中をのぞき込もうとした。

 エリアードが警告の声を発するより早く、アイリーンがつかまっていた細い枝は折れてしまった。落下する彼女の体を、かろうじてエリアードが抱きとめる。
「……姫……いい加減になさってください……」
困り切った表情で、横抱きにした彼女を見下ろし、エリアードは言った。
「ご、ごめんなさい」アイリーンはあわてて彼の腕から降りた。ほんのり頬を染めている様子が初々しかった。
 あまり無駄口をきかないエリアードが、よほど驚いたのか、ため息と共にさらに言葉をもらす。
「王家の姫君がこれほどおてんばな振る舞いをなさるとは思いませんでした」失礼と言えば失礼な言葉だったが、アイリーンは気にもとめていない。何しろ、見るもの全てに夢中だった。また小走りになりながら、アイリーンは笑って言った。
「この服と靴、とっても動きやすいの!」

 上流階級の貴族の女性は長い裾を引くドレスを着ているためもあって、優雅にゆっくりと歩くのが普通だった。いくら動きやすい格好をしているからと言っても……と、彼女の意外な活発さに、エリアードは驚きを隠しきれない。
「ですが姫」エリアードは少々きつく言葉を吐いた。
「そのようにしょっちゅう立ち止まったり、いきなり走り出したりされては、すぐに疲れておしまいになります。長旅には、ペースを保った歩き方を……しませんと……」アイリーンの顔が見る見る曇るのを見て、エリアードの声は尻すぼみにしぼんでいった。アイリーンは悲しげに尋ねた。
「あの、エリアード、それはつまり……立ち止まってお花を眺めたり、チョウチョを追いかけたりも、しちゃいけないってこと?」
「ええ、まあ、できるだけ……」
「……わかったわ」アイリーンはしょんぼりと肩を落とした。

 この日の朝、明るい光の元で馬の足を子細に調べたエリアードは、無理をさせすぎたことを悟った。馬を休ませるために、しばらく徒歩で旅する必要があると判断したのだが、アイリーンの体力がどれだけもつかが気がかりだったのだ。
 追っ手の方は、ここまで来れば、あまり心配していなかった。
城下街および首都の警備兵は、首都の行政局の指揮下にある。行政局の管轄範囲を離れれば、後は王宮がその権を掌握する軍の管轄だ。王やレスターがうまくやってくれているはずだった。第一、誰が魔女など本気で捕らえようと思うだろう。都からいなくなってもらえれば、それだけで一安心というものだ。

 エリアードは寡黙な質(たち)らしく、口数が少なかった。少々気詰まりに感じる瞬間も度々訪れたが、アイリーンはあまり気にしないよう務めていた。
 ユリアが元気にしているのか聞きたかったが、声をかけるのがはばかられた。もしかしたら……この人は、私がお姉様を殺したと思っているのかもしれない、とアイリーンは思った。王の命令だから仕方なく私を送ってくれているだけで……。
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「今までは道を急いだので、こんなものしかありませんが……」エリアードが言った。
干した果物や木の実、パンとチーズ、汲んできた小川の水で夕食をとっている時だった。
「いいえ、私、こんな美味しい食事をいただいたのは初めて。……そのぅ、こんなにお腹が空いたのも」恥ずかしそうに笑うアイリーンに、エリアードは淡々と言った。
「明日は、鳥かうさぎを仕留められるでしょう」
「えっ……鳥か、うさぎ……?」アイリーンは一瞬あぜんとし、次にさっと青ざめたかと思うと、持っていたパンをポロリと取り落とした。

 昼の間中、森の中に鹿や小動物や、様々な鳥たちの姿を見つけてははしゃいでいたアイリーンだった。それらの生き物たちと、城にいた頃自分が何も考えずに口にしていた食べ物のことを結びつけて考えてみることなど、今の今まで思いもしなかったのだ。

 高貴な身分の姫君として一生を安穏に暮らし、調理された物しか目にすることがなければ、おそらくは生涯、意識することはなかっただろう。けれどアイリーンはこの一瞬に、空が崩れ落ちてくるかのような衝撃と共に、気付いてしまったのだ。自分の命が、他者の命の犠牲の上に成り立っているということに。

「……」驚いたように、エリアードが目を見張る。
「ご、ごめんなさい、私……」大きなすみれ色の瞳が今にも泣き出しそうにうるんでいたが、彼女は無理矢理ほほえんでみせた。
「ちょっとびっくりしただけ。あっ、お水、もう少し汲んできていい?」
立ち上がって小川の方に駆けていく。
「……」エリアードは黙って、その後ろ姿を見送っていた。

 小川のほとりにひざまづき、アイリーンはバシャバシャと顔を洗った。体を起こすと、流れ落ちるしずくをぬぐいもせず、しばらくその水滴に暖かいものが混ざるに任せていた。
“たぶん……こんなことは序の口よね。だって私は城の中の暮らししか知らない。これからだわ、これからもっともっと、色んなことを知っていくんだわ……その中にはきっと、いいこともあるに違いない。……そう思うことにしよう”

 アイリーンはゆっくり立ち上がった。見上げた夕暮れの空に、月はまだ昇っていないのか見あたらなかった。アイリーンは寂しかった。母の形見の石は奪われてしまった。ティレルにも、もう二度と会えないかも知れない……。
“……ティレル……せめて、どうか無事でいて……”

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