薄明宮の奪還 更新日:2005.03.05

第2部 アドニア〜リムウル
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 第1章 /旅路
1.錯覚

 城を出てから二日間、食事のためにわずかな休息を取るだけで、エリアードはほとんど止まることなく夜も昼も馬を歩ませた。追っ手を引き離すための強行軍だったが、むろん馬にはかなりの負担だった。アイリーンが一人で馬に乗れないため、荷物を合わせると相当な重量を積んでいたのだ。

 アイリーンの疲労困憊も著しかった。かなりがんばってはいたが、馬に乗ったまま眠ってしまい、何度もずり落ちそうになった。しまいにエリアードはマントで彼女を包んで後ろからしっかりと片腕で抱きかかえ、片手で手綱を引いて進んだ。
 それでも一生懸命起きていようとしていたアイリーンが何度目かにハッと頭を上げたとき、エリアードの低い声が彼女のすぐ後ろの耳元で言った。
「よろしいですよ、お眠りになっていて下さい」
アイリーンは少しうろたえ、首を振った。
「ううん、大丈夫……」しかしいくらもしないうちに、やはり耐えられず、エリアードの腕の中で彼女の体からは力が抜けていった。
 
 丸二日が経った夜半、そろそろ限界と考えたエリアードは森の中で馬を止めた。満月から4日分欠けた月が昇ってはいたが、生い茂った木々の下はかなり暗かった。しかしエリアードは小川の流れる微かな水の音を聞き分け、そこから少し離れた草地で夜明けを待つことにした。
 
 腕の中のアイリーンは疲れた様子でよく眠っている。起こして自分で馬を降りさせるのをためらうように、しばらくエリアードは彼女を見下ろしていた。やがて、彼女の体をそっと抱き上げると、腰をひねって馬の横の空間へと持って行き、手を放した。すると、まるで重力など存在しないかのように、アイリーンの体はふわりと空に浮いた。ゆっくりと漂うように降りていくその体を、馬から降りたエリアードが再び抱きとめる。彼のマントがひとりでにほどけ、下草が柔らかに生えそろった場所に広がった。エリアードはアイリーンをその上に降ろした。
 「ん……」アイリーンが微かに声を上げ、身じろぎする。しかし寝返りを打っただけで目を覚まさず、すぐにまた穏やかな寝息を立てだした。エリアードはそれを見届けてから立ち上がった。

 夜目が利くのか、エリアードは明かりもないのに手際よく馬の世話をし、それが終わると荷の中から毛布を取り出した。アイリーンのそばに再びひざまづき、彼女の上に毛布をかける。そのまましばらく様子をうかがっていたが、やがて何を思ったかそっと手を伸ばし、彼女の額に近づけた。

 何かが、魔力に目覚めた彼女の感覚に触れたのだろうか。
アイリーンがハッと目を開けた。
「……!!」 アイリーンは息が止まるかと思うほど驚いた。いや、正確には、おびえたのだった。なぜなら……こちらに向かってかがみこんでいる黒いシルエット、その顔もわからない男の髪が、黒髪に見えたからだ。

 さっと半身を起こし、非常な恐怖に駆られた様子でおびえた目を向けてくるアイリーンに、エリアードは声をかけた。
「姫……?」
穏やかな声の響きに、アイリーンはパニックから立ち直った。ホッと息をつき、頭を振って、恐怖を振り払う。
「……ここは?」
「イプサの町近くの森の中です。夜明けまで、ここで休みましょう。……さ、お眠り下さい。お疲れになったでしょう?」
「あなたは……? 眠らないの?」
「我ら武人は訓練されていますから。必要になれば眠ります、お気遣いなく。……さあ」うながされ、アイリーンは再び横になった。エリアードは少し離れた木の根元に腰を下ろし、その木にもたれてゆったりと身を落ち着かせた。

 晩春の夜の森には、湿った土の匂いと夜行性の生き物たちの密やかな息吹が満ちている。アイリーンは眠れなかった。先ほどの目の錯覚が引き起こした動揺が、心の中に尾を引いていた。闇の中に目をこらし、じっと横たわっているうちに、その動揺は消えるどころかどんどんふくれあがり、一つの恐ろしい連想に育っていった。
 ティレルに化けていたあの男が……今度はエリアードに化けて父をあざむいたかもしれない。一度思いついてしまうと、その考えが頭から離れなくなった。……そうではないと誰が言い切れるだろう?
 あの時、ティレルが偽物だとすぐに見破ることができたのは、自分がティレルのことをよく知っていたからだ、とアイリーンは思った。子供の頃から知っている彼の言葉遣い、ちょっとしたしぐさ、自分に対する態度……、そういった、はっきりとは意識されないがその人が醸し出す雰囲気といったものによって、たとえ姿形はそっくりだったとしても別人なら違和感を感じるのはむしろ当然だろう。しかしエリアードという人物をよく知らない自分には、彼が本物かどうかなど判断できない。
 
“でも、そんなこと、あるはずがない……”
アイリーンはバカげていると、その考えを頭から追い払おうとした。
第一、ギメリックが自分を連れ出して殺すつもりなら、もうとっくにそうしているはずだ。何もこんな手間をかけなくても、城の中でだってその機会は十分あっただろう。

 アイリーンは城を出るとき、レスターに対して何か言い忘れていると感じたことが何だったのか突然思い当たった。打ち明け話が長引き、途中で一旦、牢番が帰ってきたから、アイリーンは話を端折った。エディスが殺されたあの晩のことを、ギメリックが襲ってきて石を奪って行った、その時ちょうど居合わせたエディスが巻き添えになった、と簡単に話したのだ。だからレスターは、ギメリックがティレルに化けて姿を現したことや、石を奪って去った後になぜか再びやってきてエディスを殺したことは知らない。つまり彼は、ギメリックは目的を果たして去っていった、再び襲ってくる心配はもうないと考えていたはずだ。
 そうでなければ……たぶん、きっと、兄は自分のそばから離れなかっただろう。そして命をかけて、自分を守ろうとしてくれたに違いない。

“お兄様……”アイリーンは優しく頼もしかった兄の笑顔を思い浮かべ、心細さに涙しそうになった。が、歯を食いしばってその思いに耐えた。
“いいえ、これで良かったんだわ。……誰であろうと、ギメリックの魔力に立ち向かえるとは思えない。……もう誰も巻き込みたくない”
 アイリーンは、ギメリックがもしまだ自分を狙っているのだとしたら、今そばにいるエリアードの正体がギメリックである方がいいとさえ思った。もしそうなら、兄の代わりにエリアードを危険な目に遭わせる心配もないから。。。

 アイリーンはエリアードの存在を意識するあまり、背中に彼の視線が注がれているような気がして緊張し、ますます目が冴えて眠れなくなってきた。しかしふと気づくと、自分のものではない規則正しい寝息が聞こえる。アイリーンはそっと身を起こした。見ると、木にもたれたエリアードの体がわずかに傾いている。
“眠ってる……?”アイリーンはそうっと彼に近づいた。目が慣れたのか、木々の葉の隙間からこぼれてくる月の光で、彼が目を閉じているのを見て取ることが出来た。

 アイリーンは複雑な思いで彼の顔を見つめた。一見、十人並みだが改めて見ると鼻筋の通った整った顔立ちをしている。男らしい風貌だったが、いかつい感じはなく、むしろ優しげだった。引き締まった口元にのみ、戦士らしい意志の強さがうかがえる。
 このきれいな明るい褐色の髪が、どうして黒髪に見えたのかわからない。髪型も違う。同じストレートの髪とはいえ、エリアードの髪は長く背の中程まであり、後ろで一つにまとめられている。ギメリックは肩より短く、無造作に切りそろえていた。

 エリアードはアイリーンの視線に気づく気配もなく眠っている。
“この人も疲れてるんだわ……当たり前よね……”彼の腕の中でうとうとしていた自分と違って、この2日間、エリアードはほとんど休んでいない。自分のために意に染まぬであろうこんな旅をさせられることになったこの男に、申し訳なさを感じ、先ほどまで自分を捕らえていた疑いが解けていくのを感じた。もともと、何の根拠もない疑いだった。ちょっとした目の錯覚だったのだ……。

“ごめんなさい、変なこと考えて……”
アイリーンは心の中でエリアードに詫びると、そっと元いた場所に帰って毛布を手に取った。エリアードのマントの上で、自分のマントと毛布の両方をかけて眠っていたのだと知ってアイリーンはさらに申し訳なく思った。昼間は暖かくとも、野外の夜はやはり冷える。アイリーンはエリアードのところにとって返し、彼の肩に毛布を掛けると、自分も元いた場所に戻って横になった。今度はたちまち眠りに落ちた。
 エリアードが薄目を開け、寝入っていく彼女を見ていることにはもちろん気づかなかった。

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