薄明宮の奪還 更新日:2005.01.30

第1部 アドニア
<< 前へ 目次 次へ >>
 第3章 /殺戮
4.旅立ち

 アイリーンはしたくを整えて、レスターを待っていた。
昨夜面会に来てくれた時にレスターがマントの下に隠して持ち込んだ、少年用の短い胴着とズボンに着替え、マントを羽織っている。貴族が普段身につける軽くて薄い、そしてたいていは華美な屋内用の飾りマントではなく、防寒や雨よけになる旅には欠かせない実用的なマントだった。髪は言われたとおり三つ編みにして後ろに垂らしている。アイリーンの話がどのようなものであれ、彼女の無実を人々に納得させるのは至難の業と考えたレスターは、彼女を逃がす準備を密かに進めていたのだった。

 むろんアイリーンも、レスターに話したところで、ギメリックの不可解な行動、実体を持たないティレルの存在、フレイヤの涙と呼ばれる宝石、ギメリックやアイリーン自身が持つ魔力……それら様々な謎について、何らかの答えが得られると思っていたわけではない。それに、時間が気になって、全てを話せたわけでもなかった。しかしそれまで、ひとりぼっちで何もかもため込んできた胸の内を、いくらかでもレスターに吐き出せたことで、不思議に心が軽くなっていた。
 先行きのわからない不安はあったが、レスターがついていてくれるという安心感がアイリーンを支え、希望を与えていた。一時は、望みを失って死を覚悟したアイリーンだったが、しおれていた花が水を得て生気を取り戻すように、天に許される限りの命を精一杯生きようと決意していた。

 レスターは、彼の母親の実家があるアドニア北部へと、ひとまずアイリーンを連れて行ってかくまうつもりだった。彼自身も幼少の頃から何度も行き来しているので土地勘もある。
「母の実家も田舎貴族とはいえ、地元ではそれなりに力を持った領主だ、あちこちに別荘があってね。そのうちの一つだよ。そこは使用人も身元の確かな者ばかりだし、ぼくの言うことに絶対服従だから、安心だ」そう言うレスターに、アイリーンは気遣わしげな眼差しを向けた。
「でも、都から捜索の兵が来たら、その方たちにご迷惑がかかるんじゃ……」
レスターは人差し指を彼女の唇に押し当てた。
「ストップ! ぼくが大丈夫と言ったら大丈夫。余計なことは考えなくていいの」
そう言ったレスターの晴れやかな笑顔を、アイリーンは感謝と共に、噛みしめるように思い出していた。
 しかし同時に、不安でもあった。ギメリックの出方がわからないからだ。エディスが殺されたのは成り行きだったのか、それとも……。
 それに、ギメリックが最後に言ったことも気がかりだった。ティレルを殺すために石が必要なのだと……。しかし自分の身すら自分で守れない今のアイリーンには、どんなにティレルが心配でも何もできない。アイリーンは"力"のことを、もっと知りたいと思った。石は力の源、とギメリックは言っていたが、あのとき自分は、石は身につけていなかったのだ。あの怪物を自分が倒したなど、今でも信じられないが、もしもあの力を自由自在にあやつることができれば……自分にも、何かティレルの助けになることが出来るかも知れないのに。
 相変わらず、わからないことが多すぎる……。自分はこのまま、何も知らずにただ流されていくだけなのだろうか。エンドルーアに行けば……全ての答えが得られるのだろうか……。

 牢の扉が開く音がして、レスターが入ってきた。彼も旅仕度を整えている。
背中の中程まである髪を後ろでゆるく一つに束ね、腰には長剣と短剣を下げていた。初めて見る地味な服装は、かえって彼の顔立ちの美しさを引き立てるようだった。
アイリーンを見て、彼はにっこりした。
「うん、上々だね。後は、……はい、これを履いて」
差し出されたのは、軽くて丈夫な鹿革のブーツだった。
「準備はいい?」
「はい」
「じゃ、行こうか」まるで散歩にでも出かけるように気軽な調子で、彼はアイリーンを促して牢を出た。扉の外で、牢番が正体を失って倒れている。アイリーンは気がかりそうな顔をした。レスターはそれに気づき、階段を下りながら、安心させるように言った。
「心配ない、兵舎の食事に混ぜた眠り薬で気を失ってるだけだよ。……これを手に入れるのに時間がかかってしまってね。体に害が無くて適度な時間で効き始め、しかも効果が確かで強力なものじゃないとダメだから……。それに量も必要だったし。間に合わないんじゃないかと冷や冷やしたよ」鮮やかに片目をつむってみせる。アイリーンは安堵し、たった一人の味方が様々な意味で頼りになる人物であることに感謝した。

 塔を降りると、城壁で囲まれた広場に出る。城の中心である宮殿と、城の外とをつなぐ中間地点であり、どちらへ行くにも城壁を越えなければならない。敷地は広大で、兵の宿舎や、厩などもここに建っている。昼間は城に出入りする多くの人々が行き交い、兵士の統率訓練なども行われたりするのでとてもにぎやかだが、今は少し欠けた月が作り出す淡い光と濃い影の中で、静寂に包まれていた。さすがに真夜中だと誰もいない……とアイリーンは思ったが、それは間違いだった。門へ向かって歩く間に、おびただしい数の兵士が倒れて眠っている。レスターはなんと大がかりなことをやってのけたのだろうと、アイリーンは唖然とした。そして突然、立ち止まった。
「アイリーン?」
「お兄様は……ああ、どうしましょう、私……」
アイリーンは今にも泣き出しそうだった。
「こんなことして、お兄様と私が同時にいなくなったら……誰でもお兄様を疑うわ。お兄様まで、もう城に戻って来れなくなる……」
レスターはアイリーンの手を取って引っ張り、歩き出しながら行った。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないよ、ぼくも覚悟を決めてるんだから、もう何も言わないこと」
レスターにはむろん、始めからわかっていたのだ。アイリーンはそんなことに考えが及ばなかった自分のバカさ加減と無力さが身に染みた。
「お兄様……ごめんなさい……」
「大丈夫だよ、ぼくの舌先三寸を知ってるだろう?……何とかなるさ」
レスターは気安げに笑っている。
「何とかならなかったら、吟遊詩人として諸国を回るっていうのもいいね」
レスターはむしろウキウキと、口笛でも吹きそうな様子だった。
「思うに……ぼくのこの性格は父上に似たんだな。そうに違いないよ」
「……え?」
「父上も若い頃は勝手気ままに諸国を渡り歩いていたんだ。ぼくよりひどいさ、皇太子の身で、そんなことしてたんだからね。そうしてエンドルーアで、君の母上と巡り会ったってわけ」
「……」今となっては心残りと言えば父のことだけだった。最後に一目、父に会って行きたかったとアイリーンは思ったが、むろん、そんなことはできないと、諦めていた。
 沈んだ様子のアイリーンを横目に、まるで独り言を言うようにレスターは話し続ける。
「兄上に王子が生まれていたらねぇ……ぼくも晴れて無罪放免、誰からも邪魔者になって心おきなく諸国漫遊の旅に出られるって言うのに。妃をもらって2年も経つのに、全く何をしてるんだか。まさか作り方を知らないって訳でもないだろうに……おっと。ごめん、レディの前で言うことじゃなかったね」
 こんなときに何を言ってるんだか……と、あきれるアイリーンに向かってレスターは悪びれた様子もなく、茶目っ気たっぷりに笑いかけた。朗らかでくったくのない笑顔につられ、思わず、アイリーンも笑ってしまう。自分の笑顔に兄の目が和むのを見て、アイリーンは今度は胸がつまって何も言えなくなった。彼が自分の気持ちを引き立てようとして、わざとおどけてみせているのだと悟ったからだ。またもや泣き出しそうになり、あわててうつむく。
 ふいに、 アイリーンは胸が痛くなるほどの不安を覚えた。この兄は……自分のために命を落としかねない。本当にこのままでいいのだろうか? アイリーンは何か大切なことを忘れているような気がして、焦燥感に囚われつつもそれが何かどうしても思い出せなかった。

 城の外へと扉を開いている門の所までやってきた。馬が一頭、おとなしくつながれている。レスターが用意しておいたものらしく、彼は迷わずその馬に歩み寄って行った。
 が、ふとその足を止める。
自分の背中にアイリーンをかばうと、レスターは低く言った。
「誰だ?!」
ゆらりと馬の影が揺らぎ、そこから人影が別れて出てきた。
「……父上!」
アドニア王その人が、供も連れずに一人、佇んでいた。月明かりに照らされたその姿からは、いつもの、大国の統治者らしい威風堂々として自信に満ちあふれた様は感じられなかった。それは、深い悲しみと苦悩に打ちひしがれた、一人の父親の姿だった。
しかしレスターは構えた姿勢を崩さず、固い声で尋ねた。
「……行かせて下さらないおつもりですか?」
「レスター、お前は……、お前には、行ってほしくないのだ。……すまない、アイリーン……許してくれ……」胸を引き裂かれるような深い苦悩をにじませた、弱々しい声だった。
「我が国存亡の危機に発展するかもしれぬ問題を抱えた今、お前までを失うわけにいかないのだ。レスター、わかっているだろう、カイウスだけでは軍をまとめることはできない。陰でお前がどんな役割を果たしているか、私が知らないとでも思うのか?……頼む、この国のために、お前の助けが必要なのだ」悲痛な声での訴えに、敢えてレスターは表情を動かさなかった。
「……この子を無事送り届けたら、帰ってきますよ」肩をすくめる。
「罪人を逃がした疑いをかけられれば、それも難しくなる……そうおっしゃるのね? お父様……」
アイリーンはレスターの陰から歩み出て王の前に立った。
「アイリーン……」こらえきれず、父の目に涙があふれた。
「許してくれ……私はお前に、何もしてやれなかった……」アイリーンは首を振った。
「いいえ、いいえ……私を、信じて下さるのね、お父様は……それだけで十分……」
アイリーンの、澄んだ青い瞳が、父の苦悩に満ちた顔をまっすぐに見つめた。
「でも一つだけ、聞かせて下さい。お父様は、母様を……信じていらっしゃいました?」
「もちろんだとも!……お前はほんの少し早く生まれてきただけだ、世間にはいくらでもあることなのに……私の娘だ、アイリーン、疑ったことなど一度もない!!」
王はアイリーンを胸に抱きしめた。アイリーンは安堵と悲しみの入り交じったため息を一つもらした。
「……私の、お父様に対する愛情は、母様が私に与えてくれたものです、だから私も信じています……そうでなければ、私がお父様のことをこんなに愛せるはずがありませんもの……」
「アイリーン……!!」
「……父上、この子をどうするおつもりですか?」レスターはまだ身構えている様子で尋ねる。
「安心しなさい、お前の思うとおり、脱出させるつもりだ。お前がお膳立てしてくれたこの機に……今夜でなければ間に合わない。ただし行く先はレナンダール、王宮の別荘なら捜査の手も及ばない。お前の代わりに、この子を守ってレナンダールまで送り届ける者も用意した」
レスターは眉をひそめた。
「お兄様……」アイリーンがレスターの腕に手をかけた。
「私、その人と一緒に行きます。お兄様は、お父様のそばにいてあげて」
「アイリーン……」レスターの顔にも苦悩の表情が浮かぶ。何もかも捨てる覚悟は出来ていたが、憔悴した父の姿に心を揺さぶられていた。

 その時、すぐ近くの城壁の影の中から、もう一つの影が立ち現れた。アイリーンはギョッとし、レスターですら、少なからず驚いた。それまで全く、気配にも気づいていなかったからだ。
「お初にお目にかかります、レスター様、アイリーン様。エリアードと申します」
 アイリーンのそばに片膝をついた男は、年の頃は24、5かと思われる、落ち着いた物腰の青年だった。明るい金褐色の髪を後ろで一つに束ねている。出で立ちを見れば、すっかり旅支度を済ませているのが見て取れた。
「この者は、アイリーン、お前の乳兄弟、と言ってもいいだろうな」
「えっ……ではユリアの……?」
「はい、ユリアは私の母です」エリアードは微笑んだ。
「正確には私の弟が、姫と乳兄弟なのですが」アイリーンは、懐かしい乳母の顔を思い浮かべ、エリアードを見つめた。暖かで人好きのする緑の瞳に、その面影が忍ばれる気がした。
「……それはいいけど、本当にこの子を守れるのかい? 剣の腕は?」
「この若さで、私直属の護衛隊……極秘部隊の副隊長を務めるほどの腕前だ、安心するがいい」王が言った。エリアードはひざまづいたまま頭を下げ、きびきびした声で言った。
「不肖未熟の身なれど、アイリーン様を無事、お送り致す所存!! 命に代えましても、かならずお守り致します!」
レスターはそれでも、心を決めかねるように逡巡している様子だった。
「……レスター」王が万感の思いのこもった眼差しと共に声をかけると、彼はため息をついた。
「……わかりました」そしてエリアードに向かい、早口で言った。
「君の腕を確かめるために一試合したいところだけど、そうも言ってられない。急がないと、薬の効き目が切れる。夜明けまでに出来るだけ遠くへ行っておいた方がいい」
「はっ、ではすぐに出発します」
「どの道を行くつもり?」
「城下に控える警備隊もあなどれません。追っ手が思ったより早くかかった場合を考えますと、街道を行くより隠れやすい森を進んだ方がよいと思われます」
「しかし森を行くとなると、盗賊の危険がある。一人で太刀打ちできるか?」
「接近戦になれば何人いようが自信はありますが、飛び道具で狙われて不意打ちを食らう危険は回避しなければなりません。街から近い間はまず盗賊の心配はありませんから、警備隊の心配が少なくなる辺りまで森を進み、それから、街道に戻ります」
 レスターの最終的な決断は、この男に対する彼の評価にかかっていたと言って良いだろう。いくら父のため、国のためと言っても、エリアードがアイリーンを任せるに足る男ではないと思われたなら、レスターは決して承諾するつもりはなかった。しかし、エリアードが示した逃亡ルートは彼が考えていたものと一致していた。また、彼が読めないほどうまく自分の気配を消せる者など、そう多くはいない。そのことは、剣の腕も相当なものであると思わせる材料だった。
「……オーケー。頼んだよ」言った次の瞬間、レスターが動いた。
キーンッ!!
はじかれた短剣が澄んだ音を立てて宙に飛び、数メートル先の地面に突き刺さった。
レスターがそのそぶりも見せずにエリアードの喉元に短剣を突きつけ、間髪入れずにエリアードがそれをはじき飛ばしたのだ。アイリーンには何が起こったのかさえわからないうちの、一瞬の出来事だった。
「……お見事」しびれた腕を押さえて、レスターは言った。
「ご無礼を仕りました!」エリアードは平伏する。
「いや、これで安心した。任せたよ」
「はっ!!」
レスターはアイリーンに目を向けた。
「アイリーン、……」アイリーンは何も言わないで、と言うように、首を振った。
「お兄様、ありがとう……ご恩は忘れません」レスターはアイリーンを抱きしめた。
「こっちのセリフだよ。……気をつけて。ほとぼりが冷めたら、きっと暇を作って会いに行くからね。それまで元気で」
アイリーンは少し涙ぐんで、うなずいた。そしてもう一度父と抱き合う。
「……どこにいようと、お前の幸せを祈っているよ、アイリーン……」絞り出すような、辛そうな声だった。
「お父様も……お身体に気をつけて」
アイリーンは長い三つ編みを前に持ってきて、レスターに差し出した。
「お兄様、髪を切って下さい。旅には邪魔だと思いますので」
レスターは、城の外に出ることさえほとんどなかった彼女が、どうしてそんなことに気づくのだろうと驚きながら、言われたとおりにしてやった。アイリーンは切り落とされた三つ編みを父に差し出した。
「これを……」冷たい月の光の中にあって、彼女のつややかな金髪はそこだけ穏やかな日だまりであるかのように暖かく輝いていた。父は辛そうに、それを受け取り、再びアイリーンを抱きしめた。

 名残は尽きなかったが、アイリーンは二人に背を向けた。エリアードが王とレスターに一礼して馬に乗り、アイリーンに手を差し出す。彼の手とレスターに助けられ、アイリーンも馬上の人となった。彼女は城を振り仰いだ。16年間を暮らし、もう二度と見ることはないであろうアドニア城を。そして自分を見上げる父と兄の顔に目を移す。
“お父様にも会えた……自分を愛してくれた人たちにこうして見送ってもらえるなんて……私は幸せだわ”アイリーンは二人に、心からの笑顔を見せて手を振った。朝露の中に咲く一輪の白い百合の花のような、たおやかで優しい、それでいて凛とした笑顔だった。それは運命に立ち向かっていこうとする者の強さに輝いていた。

 そして、二人は旅立っていった。城下の町並みへと続くなだらかな坂を下っていくその後ろ姿を、月の光の中に佇み、王とレスターはいつまでも心配そうに見送っていた。その心配が杞憂に終わらなかったことを、脳裏に焼き付いた彼女の笑顔とともに、その後何ヶ月にも渡って思い返すことになるとは思いもせずに……。

▲ページTOPへ

<< 前へ 目次 次へ >>
inserted by FC2 system