薄明宮の奪還 更新日:2004.11.21

第1部 アドニア
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 第2章 /不安
2.うわさ

「お兄様、あの、エンドルーアは……」アイリーンが言いかけたとき。
「こんなところにいたのね!」
 二人が振り向くと、エディスが、数人の取り巻きたちを従えて立っていた。レスターは“ほら見てごらん”と言うように、アイリーンに向かって肩をすくめて見せた。

「どうして広間で竪琴を弾いてくれないのよ?」
「うるさいなぁ。いつも言ってるだろう、気が向かなきゃ弾かないって」
「だって今、弾いてたじゃないの!」
レスターはゆったりとベンチの背にもたれてあさっての方を向き、
「さぁ? 知らないよ。空耳じゃないの?」と言っておいて、クスクス笑っている。
「レスター!」エディスは顔を真っ赤にして叫んだ。
 アイリーンは見るに見かねて口を出した。
「あの、広間へ戻って弾いて差し上げて、お兄様。私も戻ります」
むっとしたエディスはかみつくように叫ぶ。
「何よあなた! 何様のつもり? いい気にならないでよっ」
「お姉様……」
「あなたにお姉様なんて呼ばれる筋合いないわっ、あなたなんか……」
「エディス!」

 鷹揚に構えていたレスターがいきなり鋭い声を出した。
エディスばかりか皆がハッとして彼を見る。
その時ほど厳しい目をしたレスターを、その場にいる者は誰も見たことがなかった。
 しかしその表情は一瞬のうちにかき消え、いつもの、人をからかうような笑みに取って代わっていた。
レスターはゆっくり立ち上がってエディスのそばへ寄り、肩を抱いて回れ右をさせながら言った。
「さあさあ、いい子だから、広間へ戻って待っておいで。もう少ししたら行くから」
彼のとっておきの笑顔と優しげな声に、エディスは不満そうにチラリとアイリーンの顔に目をやりながらも逆らわず、
「本当ね? きっとよ!」と言い置いて、取り巻きを引き連れ、去って行った。

「やれやれ。ワガママ姫のお守りも楽じゃない」
振り向いたレスターの目に、問いかけるような眼差しをしたアイリーンの姿が映った。
「……さて、残念だけど、広間に戻るはめになったね。君も、戻るだろう?」
何気なく振る舞おうとしているレスターに構わず、アイリーンは言った。
「……お姉様は何を言おうとしたの?」
 ベンチに置いた竪琴を拾い上げようとかがみ込んでいた彼は、何の反応も見せなかった。しかしゆっくりと振り向いたその顔からは、いつもの微笑みが消えている。
  レスターはそのまましばらくの間、黙ってアイリーンを見つめていた。アイリーンもまっすぐに、彼のブルーグリーンの瞳を見返した。

 とうとう、諦めたようにレスターは言った。
「……どうしても聞きたい? 君は知らなくていいことだと言っても?」
「ええ、……もちろん」
レスターは困ったな、というように苦笑した。
「どうやら君は、塞いでいた目と耳を開くことにしたようだから……、ぼくや父上が知らせたくないと思っていることも、いずれどこからか耳に入ってしまうだろうね」
塞いでいた目と耳。兄の言うとおりだった。
「……どうせ知ってしまうなら、今ここでぼくの口から言ってしまったほうが、いいのかも知れない。でもいいかい? これはただのうわさ、全くのデマだよ。気にしてはいけない。約束するね?」
アイリーンはかぶりを振った。
「……聞いてみないと、約束はできません」
レスターはため息をついた。
「そりゃそうだろうけど……強情だね、君は。……子供の頃からそうだった」
その声に含まれる響きに、アイリーンは改めてレスターの顔を見た。彼は懐かしむように目を細め、微笑みを浮かべていた。いつものからかうような、意地悪そうな笑みではなく、暖かい笑顔だった。
「生真面目で、おっとりというか薄ぼんやりしていて、おとなしい子……誰もがそう思っていたけどね。どうしてどうして」

 アイリーンは不思議だった。
王家の子供は母親のいる後宮で別々に育つため、腹違いの兄弟姉妹が顔を合わせることは、めったにない。そのめったにない機会に、必ずと言っていいほど、アイリーンはレスターに嫌がらせを受けたのだ。
 理由もないのに突き飛ばされたり、どこでどうやって捕まえたのか、隠し持っていた蛇や蛙を投げつけられたり。そんな子供っぽい意地悪をする年齢を過ぎても、天賦の才ともいえるその毒舌で、何度いたたまれない思いをさせられたか知れない。
 ティレルと月に一度会うようになってからはますます引っ込み思案になり、年に数度の公式行事以外、ほとんど人前に姿を見せなかったアイリーンだが、それでも顔を合わせるたびに、レスターの嫌がらせは続いていた。
 なのに、わらにもすがる思いで申し出た唐突なアイリーンの頼みを快く受け入れてくれたばかりか、自らエスコート役を買って出てくれたことと言い、先ほどエディスに見せた態度と言い、昨日までとは打って変わった彼の親切さに、アイリーンはとまどいを覚えていた。

 思わずアイリーンは、口に出して言った。
「……私、お兄様には嫌われているとばかり、思っていたわ」
「ぼくこそ、君に嫌われてると思ってたけどね」
「だってそれは、お兄様が……」
「ははは、そうだね、ずいぶんひどく当たったよね、子供の頃は……謝るよ。でも君はチビのくせに何をされても泣きも怒りもせず、ただ黙ってじっと顔を見つめてくるばかりで……それがまたしゃくに障ってね。何とかして君のベソをかく顔が見たいと思ったもんだよ」
「……ひどいわ、私、どんなに悲しかったか……」
「でも君は今日、ぼくに助けを求めてきた。そうじゃないかい? 誰かの手が必要だったとき……ぼくを思い出してくれたのはなぜ?」
「……それは……他に、頼めるような人がいなかったから……それに、宴のことならお兄様が一番よく知っていそうだったし」
「ふぅん、それだけ?」レスターの笑顔が深くなる。
「君は気づいてたんじゃないの? ぼくの気持ちが変化したことに……」
「変化……?」
 確かに、考えてみれば、兄の態度が微妙に変化していたのは昨日からだ。それまでの、明らかにトゲを含んだ冷たい物言いに比べると、昨日の彼は、彼女をからかって楽しんでいたとはいえ、悪意のようなものは感じられなかった。
「そう、ぼくは君が嫌いだった。……というか、しゃくに障ってしかたなかった。それがなぜなのか、ぼくは自分でもずっとわからなかったんだが……」

  奇妙な表情で自分を見つめたまま、黙ってしまったレスターに、アイリーンは怪訝そうに声をかけた。
「……お兄様?」
レスターは我に返り、自嘲気味にフッと笑って、言った。
「いや、あまりにもバカバカしくて、今はまだ話したくないな。まぁ要するにぼくは、全くのガキだったってことさ」
 アイリーンは狐につままれたような気分だった。何のことだかさっぱりわからない。
レスターはクスクス笑った。
「そんな顔せずに。時が来たら、話してあげる。今は……君の、知りたかったことを」
 レスターは優しくアイリーンを引き寄せ、彼女の耳に何事かをささやいた。
アイリーンの目が、驚きのため、わずかばかり見開かれる。彼女は身を引いてレスターの顔を仰ぎ見た。しかし彼はしっかり彼女の手を握って離さず、
「根も葉もない噂さ、気にすることはない」と、笑って言った。
「……」
「ほらほら、考え込まない。さあ、広間へ戻ろう」

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