しろつめ草の約束


 「子供の頃、わしはなぁ、」
おじいちゃんの昔話が始まった。
「港の波止場に立って沖を見るたびに、あの水平線のところで海と空はつながっているんだと、そう思っていたんだよ。そしていつか、あそこまで泳いで行って、そっから空へ登ってやろうってね」
おじいちゃんはゆっくりとパイプをくゆらせた。


 沖へ行っても空へ登れるわけではないと知った後も、海への憧れは残った。
それで、少年は船乗りになった。何かを始めるきっかけなんて、そんなものだ。

 海を渡るのは楽しかった。様々な国をめぐり、いろんな、珍しいことや楽しいことに出会った。次の港に着いたら、今度はどんなことが待っているんだろう。そんな想いで、少年はいつも胸をふくらませていた。
 そうして、ふるさとの村に一度も帰らないまま、少年はいつか青年と呼ばれる年ごろになっていった。
彼はよく働いた。いずれは、自分の船を持って船長になる。それが彼の夢だったからだ。その夢がまた、さらに新しい土地へ、新しい旅へと彼を駆り立てた。
 しかしいつの頃からか、彼を駆り立てるものは、それだけではなくなっていた。新しい港に着くたびに、彼は思うのだ。
”ここではない。俺が来たかったのは、この場所ではない……”
彼には、その想いがどこから来るのか、わからなかった。ただ、虚しさと焦燥感が、彼に取りついていた。

 ある年の暮れのことだった。南の海を航海中、彼の乗った船は、ひどい嵐に出会った。まだ午後も浅いというのに空は真っ暗になり、天の底が抜けたかと思うような雨がすさまじい横風と共に、いきなり襲ってきた。船はボートを出す余裕もないまま、あっという間に転覆してしまった。
 甲板にいた彼は、荒れ狂う波の真っ只中に投げ込まれた。 必死にもがく彼の目の前で、船の積み荷だった樽が一つ、激しい波にもまれていた。 彼はやっとの思いで、それにしがみついた。 幸い栓がしっかりしてあったらしい。かなりの浮力だ。 これにつかまってさえいれば、おぼれずにすむ、と彼は思った。
 ところがそう簡単にはいかなかった。 暗く冷たい死の底に引きずり込もうとする水の魔の手は、たやすく彼をあきらめようとはしなかった。時には上から襲いかかり、時には巨大な力で彼を空中高く持ち上げる。かと思うと次の瞬間、真っ逆さまに波の谷間へとたたき落とす。
”これを放した時が、俺の最後だ”
樽がもぎ取られそうになるたびに、彼はそう自分に言い聞かせ、死にもの狂いで腕に力を込めた。

 そうして、どのぐらいの時が経ったのか……。
ふと気がつくと、雨がやんでいる。 見上げると、雲はその厚みを次第に失っていきつつあるようだった。 やがて、激しかった波も、ゆっくりと静まっていった。
 雲の切れ間から、夕映えの残照が赤く空を染めているのが見え隠れする頃、彼は疲れきって、樽につかまったままうとうとし始めた。ハッと気づいては、樽につかまりなおし、またうとうとする……何度それを繰り返しただろう。
 彼がはっきり目を覚ました時、日はすっかり暮れおち、空は一片の雲もなく晴れ渡っていた。まさしく、降るような満天の星だった。彼はしばらく疲れも忘れ、星を眺めた。 明日をも知れない身だというのに、不思議なほど、何も考えられなかった。 こんな大海原の真ん中に1人で浮いているのだから、運を天に任せる他にない。

 そうして、ただぼんやりと星を眺めているうち、懐かしい風景を思い出した。
子供の頃、よく遊んだ野原は町の一番外れにあり、五月になると一面にしろつめ草の花が咲く。日がな一日、幼馴染みの女の子と、花を摘んで遊んだ頃があった。あまり夢中になりすぎて、すっかり日が暮れるまで遊んでいて、よく親に叱られたものだ。 闇に沈んだ野原に、輝くように白いしろつめ草の花が点々と咲いている様は、まるで夜空の星のようだった。

”あの子はどうしたろう………” 彼は少女の面影をまぶたに想い浮かべた。
”そういえば、出航のとき、他の皆と一緒に見送りに来てくれた。出航の汽笛が鳴ったとたん、泣きそうな顔をしたっけ……”
 彼はその日のことを、まるで昨日のことのように思い出した。
そしてその子と遊んだ幼い日々のことも。
 日が暮れて、家に帰る時、その子は決まって「明日も遊ぼうね、約束ね」と小指を差し出した。けれど、子供の時間は足早に過ぎていく。幼年期から少年期へと踏み込んだ彼は、同性の友達が増えるにつれ、男の子らしい遊びに夢中になっていった。しろつめ草の野原へ足を運ぶ回数もだんだん少なくなり、いつの間にかその少女と遊ぶことも、すっかりなくなってしまったのだ。

 ”もう2度と、会えないかもしれない”
そう思うと、急に彼女に、たまらなく会いたいと思った。
こんなことになるなら、どうしてせめて一度くらい、故郷に帰っておかなかったのだろう。
帰って、彼女に会っておかなかったのだろう。
激しい後悔に、締めつけられるように胸が痛んだ。
彼は思わずつぶやいた。
「ああ、帰りたい……」

 その時だ。
ゆっくりとうねっていた海が、ぴたりと動きを止めた。
しびれるような静けさが、彼を中心に、黒い海に、暗い空に広がって行く。
やがてそれは全世界を覆い尽くしていった。

彼は恐ろしいような、不思議な気持ちで、辺りを見回した。
何もかもが止まっている。まるで、世界中のすべてのものが、この一瞬に永久に閉じ込められたかのようだ。

”いったいこれは……どうなったんだ? 俺は夢を見ているのか”
真っ黒な、ガラスのような水面が、どこまでもどこまでも、なめらかな起伏を見せて広がっている。
いや、真っ黒ではなかった。
白い、小さな光が、点々と水の上に散らばっている。
”ああ、空の星が映っているんだな”と彼は思った。
”まるで子供の頃の空想そのままじゃないか。空と海とがつながって、上と下とに星が輝いている……”
 ところが、そうではないことに気づいて、彼は驚いた。
水面で輝いていたのは、白い花だったのだ。
彼は呆然として、半ば無意識に、そばにあった花の一つに手を伸ばした。
花を摘む手ごたえが伝わってくる。
彼は手にとった花を見つめた。 しろつめ草の花だった。

 気がつくと、彼はその花を手に、しろつめ草の花の咲く草原に立っていた。
さあっと涼しい風が吹いてきて、初夏の草の香りがした。
とたんに、彼はあの頃のわくわくするような気持ちを胸一杯に思い出した。
何もかも、あの頃のままだ。あの子と遊んだあの頃と……。
「やっと来てくれたのね」
  驚いて振り返ると、幼馴染みの少女が立っていた。
見違えるほどに大人びて、すっかり娘らしくなっていたけれど、あの子に間違いなかった。
「わたし、ずっと待ってたのよ」 怒ったような、それでいて泣き出しそうな顔で、彼女は言った。
「あなたがだんだん、私と遊んでくれなくなっても、私はあの野原で待ってたの」
彼は狼狽して、口の中で呟いた。
「ごめん…」
すると彼女は思いがけなく優しく笑った。
「うそよ。だってわかっていたもの。あなたはいつだって、手を放すとあっと言う間に空へ飛んで行ってしまう風船みたいだった。男の子どうしの遊びに夢中だった」 彼は胸が詰まって、何と言っていいかわからなかった。
「でも、私は悲しかったの。だってあの頃から私、あなたが大好きだったから……」
彼女ははにかむように目を伏せた。それからすぐにまた、彼を見て、いたずらっぽく笑った。
「ねぇ、私が魔女の修行をしてるって言った時、あなた全然信じてなかったでしょう? でも見て! これは私の魔法なのよ! すごいでしょう?」彼女は大きく両手を広げ、スカートの裾をふわりと翻しながらくるりと一回転した。
「あなたの出航を、私、見送りに行ったわね。あの時もう、私は一通りの魔法は使えるようになってたから、そうしようと思えばあなたを引き留めることも出来た。でもそうはしなかったわ。あなたが行きたくて行きたくてしかたないってことがわってたから。そのかわり、あなたにお守りだと言って渡した四つ葉のクローバーに、魔法をかけておいたの。あなたがこれを捨てずに持っていてくれて、そしていつか私に会いたいと思ってくれたなら、その思いがきっと私に届くようにって。…… さあ、行きましょう」
彼女は彼の手をとって、にっこり笑った。
ずっと昔、彼がとても好きだった、明るく屈託のない笑顔で。
「帰りましょう。……私たちの故郷へ」
二人は走り出した。
草の上を。
星なのか、花なのか、輝く白い光が点々と続く草原を、二人はどこまでも走り続けた。
走りながら、彼は心の中で、何度も何度も叫んでいた。
『帰るんだ、俺は故郷に帰るんだ!』


「わかっただろう?」おじいちゃんはパイプを口から放して言った。
「お前のばあさんは、魔法使いだ。お前も、魔女の血を引いておる」
その時おばあちゃんが、お茶の用意をしたお盆を持って現れた。
「またおじいさんが、夢の話なんかして」
私はいつも、おばあちゃんが喉の奥でくつくつ笑っているのを見ると、暖かいお鍋が煮えているところを思い出す。
「おじいさんはね、浜辺に流れ着いたところを、助けられたのよ。私は知らせを聞いて、びっくりして病院にとんでいったんだから」
「世間の人はそう言っとるがな、」おじいちゃんはゆったりと煙を吐き出した。
「本当のことを知ってるのは、わしとばあさんだけじゃ。それと、お前とな」
おじいちゃんは私に向かって、片目をつぶってみせた。


-Fin-
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