猫の瞳のひみつ


 夕暮れ時だった。町を見下ろす小高い丘の上に座って、ぼくはいっしょうけんめい絵を描いていた。

 長かった夏休みもあと三日でおしまい。なのに図画の宿題がまだできていない。絵の題は『身近にある風景』だったから、ぼくはスケッチブックと絵の具をかかえて、どこを描こうかとあっちこっち歩き回った。ちょうどこの丘の上まで来たとき、すばらしい夕焼けが始まった。それで、夕焼け空の絵を描くことにして、ぼくはここに座りこんだんだ。

 しばらくの間、ぼくはいそがしく筆を動かしていた。でも少したつと、がっかりして手を止めてしまった。なぜって、描いているうちに、どんどん空の様子が変わってしまうんだ。澄んだオレンジ色だった空は、すっかりうす黒くにごってしまった。さっきまでピンクの綿菓子そっくりだった雲も、今では細長く横にのびてまるで紫のリボンみたいだ。
  「ちぇっ、いやになっちゃうなぁ。これじゃ描けやしない」
声に出してそう言ったら、後ろで誰かが”ふふっ”と笑った。びっくりしてふり返ると、一人のおじいさんがぼくの後ろに立って、スケッチブックをのぞきこんでいる。白いもしゃもしゃしたまゆ毛とひげを生やし、手には一匹の白いネコを抱いていた。
 「ぼうや、夕焼け空を描いてるのかい?」
 「そうだよ」
ぼくはうなずいた。するとおじいさんは、
  「ぼうやは空が好きかい?」
と聞いた。変なことを聞くおじいさんだ。そう思ったけど、ぼくはだまってまたうなずいた。おじいさんはうれしそうにニコニコした。
  「そうかい、そうかい。なら、いいものを見せてあげよう。ちょっと、このネコの、目を見てごらん」
  「?目?」
ぼくの方に向けて抱き直されたネコは、おとなしくされるままになってぼくを見返している。そこら辺でよく見かける、特に変わったところもなさそうな日本ネコだ。
  「目がどうしたの? 別に、普通だけど」
  「もっと近くで、よーく見てごらん」
ぼくは自分のおでことネコのおでこをくっつけるようにして、ネコの瞳をのぞきこんだ。
  「あっ…!」ぼくは思わず声をあげた。
 うすみどり色の瞳の中に、チラリとオレンジ色が走ったような気がした。とたんに、その色がぐーんと目の前いっぱいに広がって、いつの間にかぼくが見ているのはさっきの夕焼け空だった。オレンジ色のまぶしい太陽も、ふんわり浮かんでいた雲の形も、遠くに見える山の姿まで、そっくりそのままだった。
 「はっはっはっ、おどろいたかい。まだまだ他にも、いっぱいあるんだよ。……おいで」
おじいさんは周りの草むらにむかって呼びかけた。
 ”ニャーン”
すぐそばのしげみから、茶色いトラジマのネコが顔をのぞかせた。かと思うと、あちらのしげみから三毛ネコが、こちらのしげみからは黒ネコが出てきて近寄ってくる。みるみるうちにいろんなネコが集まってきた。全部で二十匹くらいはいただろうか。
 ぼくは一匹ずつ順にネコを抱き上げて、瞳をのぞきこんだ。ネコたちはそれぞれに、違う空を持っていた。
 トラジマのネコは、紫に染まるたそがれの空。三毛ネコは、透き通った青緑色の夕闇。黒ネコは、ぴかぴか光る冬の星空だった。突き抜けるように青い秋晴れの空、朝焼けのバラ色の空、雨上がりの虹を持ったネコもいた。
 どの景色もみんな、本当にきれいだった。
「すごいね! ぼく、こんなにきれいなもの見たことがないよ! どうして、ネコの目の中に空があるの?」
「ネコはね、そうしようと思えば、見たものを何でも目に写して残しておくことができるんだ。ちょうど写真をとるみたいにね」
「でも、写真とは全然ちがってたよ! まるで、まるで……ほんとに空を見てるみたいだった」
おじいさんは笑顔でうなずいた。そして急にまじめな顔をして言った。
「わたしがネコたちにたのんだんだよ。きれいな空がなくなってしまう前に、できるだけたくさん残しておいてほしいってね」
「え? なくなってしまうって、どういうこと?」
「きれいな空は、空気がきれいでないと見られないものなんだ。このまま空気が汚れていくと、きっといつか、きれいな空はどこにもなくなってしまう。そして空を見上げる人もいなくなってしまう。そんなことが長く続くと、人間はみんな、すっかり元気をなくしてしまうよ。きれいな空を見ると元気になれるって、早くみんな気がつけばいいのにねぇ」
ぼくは何も言えなかった。ただ、こんなきれいな空がもうだんだん見れなくなるなんて、いやだなと思った。
 「ところで、絵がまだ途中のようだね。もし良かったら、このネコを少しのあいだ貸してあげるよ」
それは、さっきの夕焼け空を持った白いネコだった。
 「本当?!」ぼくは大喜びでネコを受け取った。辺りはもう暗くなりかけている。
 「うちに連れて帰ってもいい? 描き終わったら、きっと返しに来るから」
 「ああ、いいとも。返しに来なくても、ネコは勝手に帰ってくるよ、大丈夫」
 そういうわけで、ぼくはそのネコを借りて帰って絵を仕上げた。ぼくが描き終わったのを見ると、ネコは窓ぎわの机の上に飛び乗った。そして僕の方をむいて”あけて”と言うように一声鳴いた。ぼくは、このすばらしい宝物を持ったネコと別れるのが、少しもったいない気がした。それで、
 「おまえ、ぼくんちのネコにならない? ママにはちゃんと話をつけてやるからさ。もちろんおじいさんにもたのみに行くよ」
と言ってみた。でもネコは窓の前にぴったり座ったまま、ぼくの顔をじいっと見つめるばかりだった。しかたがない。ぼくはあきらめて、窓をあけてやった。

 次の日、ぼくはおじいさんにお礼を言おうと、またあの丘に登ってみた。でも丘にはおじぞうさまが立っているだけで、おじいさんには会えなかった。あんなにたくさんいたネコたちも、一匹も見かけなかった。
 夏休みが終わって、ぼくは絵を先生に提出した。先生は、一瞬の空の色がとてもよく描けているとほめてくれた。ぼくはうれしくて、もう少しで、おじいさんとネコたちのことをしゃべってしまうところだった。でも言わなかった。なぜだか、誰にも話してはいけないような気がしたからだ。

 ぼくは今でもネコを見かけると、あの時のネコかと思ってドキッとする。そして、もしかしたら空が見えやしないかと、瞳の奥をのぞいてみたくてしょうがない。でもネコたちはいつも、ぼくが顔を近づけるとすぐ逃げて行ってしまうんだ。
 ネコたちが持っていたきれいな空を、ぼくはもう一度見てみたい。だからきっと大人になったら、空気をきれいにする仕事をしようと思う。そしていつか、世界中の人がきれいな空を見て、毎日元気に暮らせたらいいなぁと思う。

-Fin-
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